左官の歴史
「左官」と呼ばれる由来
平安時代に宮殿の建築や宮中を修理する職人を「木工寮の階級」をつけて出入りを許可していました。
律令制度下において階級を、「守(かみ)=大工」、「介(すけ)=桧皮葺き大工」、「壤(じょう)=金物大工」、「属(さかん)=壁塗り職人」と構成した四等官の一つとして、壁塗り職人に「属(さかん)」という役職がありました。漢字の「左官」は当て字で、古くは「沙官」「沙翫」と表記されていました。このような階級の呼び名が左官の由来と言われています。
左官の起源
左官の起源は、人々が竪穴式住で暮らしていた縄文時代にまでさかのぼります。
当時、壁の材料である土は最も手に入れやすい素材で、その土を生のまま団子状に丸めて積み上げていき土塀を作ったのが左官工事の始まりです。
その後、飛鳥時代には石灰を使って壁を白く塗る仕上げ技術や細く割った木で壁の芯を作る技術などが開発されたことによって左官工事はますます発展しました。
安土・桃山時代になると茶室の建築に色土が用いられ、土の色をコントロールするだけでなく、砂や繊維を混ぜることで様々な表現が可能になりました。
江戸時代から現代への発展
江戸時代になると、漆喰で壁全体を覆う漆喰仕上げと言われる工法が広まります。漆喰は建物の耐火性を飛躍的に向上させ、漆喰に含まれる消石灰は強アルカリ性で殺菌作用があり、漆喰の消石灰が石灰石になる硬化過程において二酸化炭素を吸収し、室内環境を快適にします。
デザイン的にも漆喰は白く美しく、城や蔵に使われてきました。漆喰彫刻と呼ばれる装飾的な施工も行われるようにもなり、左官技術は芸術性においても発展を遂げます。
そして、文明開化によって建てられるようになった洋風建築の装飾にも対応し、様々な建築に用いられるようになりました。
現在でも漆喰に限らず左官技術には新しい工法が開発され、豊富な種類の材料が取り入れられ発展を続けています。
職人の結束を固めた「太子講」
大工,左官,鍛冶(かじ)屋などの建築関係の職人たちが集まり、結束を図るために「太子講」と呼ばれる行事が行われていました。
「太子講」とは、聖徳太子が寺院建築史上大きな存在であったことに由来することから、建築、木工の守護神として崇められ、建築関係の職人が集まり太子様を祭る職業講のことを太子講といいます。
具体的には、「聖徳太子の掛け軸」を掛けてご祈祷した後に食事をしたり、職人仲間でその年の日当を割りふりを相談したり、欠員補充の話し合いなどを行っていたとされています。
江戸時代には盛んに行われていたと言われる太子講は、聖徳太子の忌日である2月22日に行われ、職人達の結束を固める集会として建築関係者が集まり執り行われます。
現在でも、建築関係者が集まり「太子講」が執り行われています。